みなさんこんにちは。
まんまでございます。
みなさんこんにちは。
まんまでございます。
みなさんこんにちは。
まんまでございます。
みなさんこんにちは。
みなさんこんにちは。まんまでございます。
本日(令和5年1月14日)は大学入学共通テストですね。
受験生の闘志あふれる熱気に寒さも忘れそうです。
そんな若者のエネルギーをひしひしと感じていると、自分が受験した時のことを思い出しました。
20数年前はセンター試験でしたが、会場は「京都工芸繊維大学(京都市左京区)」だったと記憶しております。
まずは受験票。
大きめで年によってカラーが異なる独特な受験票は、確か赤色か桃色だったと思います。
そして会場ですが、京都工芸繊維大学の場所をGoogle mapで検索してみると、高校時代の住居である山科区からかなり遠いところですね。
もちろん、高校の所在地からもさらに遠いです。
現地まで友達と待ち合わせをして試験に臨んだのか、何時ごろ着いたのか、当時の天気はどうか、昼休みは何を食べたのか…なぜか全く覚えていません。
テストそのものでは、一問10点も配点され、出来れば間違えたくない国語の選択肢を間違ったとか、模試では好成績だった英語が本番では全く振るわなかったとか…これまたロクな記憶がないです。
試験2日目の朝刊に1日目の解答例が掲載されますが、敢えて自己採点はせず、2日目の日程が終わってからすべての科目を一気に採点したというのは、高校生なりの戦略だったのかなあとか。
結果的には、目標としていた得点率を超えられず、ついでながら定期試験で順位を争っていた親友との勝負に僅差で負け…と、やはりよい記憶がないですね。
ちなみにその親友とは、六星占術で有名な細木かおり氏の旦那様です。
彼は東北大学に進学したのですが、大学時代はお互いの実家で寝泊まりしたり仙台の下宿に遊びに行ったり、はたまた「青春18きっぷ」を利用し普通列車で東海道本線を旅行したりしていました。
彼が北海道に遊びに来てくれた時は、修学旅行以来の層雲峡を再訪したり、わたくしの下宿で飲み明かしたり…と楽しいひとときを過ごさせてもらったものです。
結婚式に呼ばれたのですが、当時19歳だったかおりさんその方がよもや細木数子氏の跡継ぎになろうとは。
つくづく人間の縁って不思議だなあと思います。
さて、そんなこんなでセンター試験の点数は振るわなかったのですが、予定通り前期日程は実家から通える関西の国立大学に強引に出願、後期日程で母校となる北大を選択いたしました。
残念ながら前期日程の第一志望は不合格でしたが、人生あれなければこれなし…と、万が一第一志望校に合格し通学していたら今の自分はどこで何をしてたのかなあと、考えても仕方ないことに思いを馳せてしまいます。
大学4年生の冬が阪神淡路大震災の年となります。
不謹慎かも知れませんが、被災して命を落としていたかも知れません。
また、医学部を再受験しようと思ったかどうか。
やはり人間の運命ってわからないなあと思います。
いずれにいたしましても、受験生の皆様はベストを尽くしてください!
受験の先輩としてわたくしも全力でエールを送りたいと思います。
こんにちは。まんまでございます。
こんにちは。まんまでございます。
以前紹介させて頂いた層雲峡へ久しぶりに行って参りました。
(こちらの記事をご高覧いただけますと幸いです)
産婦人科医 ドクターまんまの北海道の歩き方 - doctor-mamma’s diary (hatenablog.com)
大好きな層雲峡からすっかり足が遠のいていましたので、
快晴の休日、「そうだ、小函がどうなっているか、紅葉狩りもかねて層雲峡に
行ってみよう!」と、早速愛機で出掛けてみました。
まずは駐車場も広く、ゆっくりと景色を楽しむことが出来る大函を目指しました。
この大函、柱状節理のダイナミックさは小函に劣りますが、駐車場や散策するスペースに恵まれていることもあり、1983年の初訪問時は、お土産屋さんやレンタサイクルの駅もあり、かなりにぎわっていたと記憶しております。
しかし時は2022年。
令和の大函はそんな以前(よく考えればおよそ40年前!!)の姿を微塵も想像させないほど閑散としていました。
店舗は名残すらないのは当然ですが、トイレも固く閉ざされ、もはやただの無料駐車場と化していました…。
世の変化は無情です。
ただし、小函から大函に抜ける旧国道の大函トンネルが通行出来そうな姿に戻っていました!
こちらのトンネルは、現在の新大函トンネル(国道39号線)が出来た際サイクリングロードに転用されたのですが、小函の通行禁止措置と共にその役目を終えたところ、以前の記事で紹介していますように、わたくしが最後に見た姿は入口がコンクリートか何かで完全に閉じられていました。
ところが、何故か開通しています…。
これなら中を通ることが出来そうです!!
真ん中あたりに鎮座していた、巨大なお地蔵様はまだあるのかなあ…。
出口の明かりも見えるので怖くない…気がする。
今回は他のお客さんもいらっしゃったので写真撮影だけでしたが、周りにだれも居なかったら行ってみようかなあとかなんとか。
そんな大函は早々に撤収し、小函へ。
本命の小函でございますが、結論的には、もはや小函の景観を愉しむには絶望的に不可能な状態でした。
上の写真に見えるゲートでございますが、以前は解放されていました。
上記の写真は、2005年に訪れた際、ゲートを少し入ったところから入口を振り返った時に撮影したものです。
もはや同じ場所とは思えないですね…。
ちなみに、当時はクルマでゲート前まで簡単に乗り付けられましたが、現在はクルマが入れないような措置がされています。
ゲート越しに中を覗くとこんな感じです。
当たったら死ぬな…と思わせるこのような巨大な崩落石が無数に散らばっているほか、訪れる人もまばらなのか、かすかな獣道を残すだけで草木も荒れ放題、どこに羆が潜んでいてもおかしくない雰囲気と崩落の恐怖で、ゲート付近に立っていることすら不可能です…。
あと450mで神削壁…数百メートルが果てしなく遠く感じます。
ほんの少しでも神削壁を眺めてみたかったですが、さすがに無理でした。
もしかすると、もう既に大部分が崩落してるかも知れないですね…。
タウシュベツ橋梁も崩落寸前ですし、北海道の遺産が次々と失われていく姿が残念でなりません。
ドローンなら確認が容易でしょうが、やはり直接眺めてみたい、そんな在りし日の小函に想いを馳せながら層雲峡を後にしました…。
こんにちは。まんまでございます。
今回は岐阜城についてお話させていただければと存じます。
岐阜城(岐阜県岐阜市、金華山【標高329メートル】の山頂にございます)は、かつて稲葉山城と称され、その起源は鎌倉時代以前に遡るようですが、本格的に整備されたのは、戦国時代、斎藤道三公が居城とした頃のようです。
その稲葉山城を織田信長公が1567年に攻略、この地方一帯を平定したのち、本拠地を小牧山から当城に移した際、麓の町などを含めて『井口』から『岐阜』と改名したことにより、爾来岐阜城と呼ばれるに至ったとのことです。
現在の岐阜城として知られている天守閣は1956年に往年の姿を想像して作られた「復興天守」で(よく「模擬天守」と言われますが、戦国時代に天守様構造物があったので、何もなかった所に天守閣を作る「模擬天守」とは異なるというのがわたくしの意見です)、城内は資料展示室、楼上は展望台として多くの方に親しまれています。
そんな岐阜城からの眺めでございますが、圧巻の一言に尽きます。
眼下に広がる濃尾平野はどこまでも広く、伊勢湾から太平洋に溶け込むその姿に、人間の可能性が無限に広がるような錯覚を抱いてしまいます。
また、水量豊かにゆるゆると流れる長良川が夕陽に照らされ金色に輝く様は、自然が作り出した錦繍のようでもあり、また京都へ続く黄金の道のようでもあります。
斎藤道三公や織田信長公もそれぞれの思いを抱いて眺めていたであろう、この景色には不思議なエネルギーを感じます。
わたくしは、何かに行き詰まった時、ある選択において大切な結論を出したい時、また、とにかく前向き思考になりたい時、岐阜城に向かいます。
その岐阜城へは、ロープウェイと登山道、二通りのアプローチがございますが、やはり金華山の力強さを実感できる登山道をおすすめいたします。
登山道といたしましては、いくつかのルートが整備されており、距離、所要時間、レベルが分かれています。
観光として訪れる場合は、麓の岐阜公園からアプローチ出来る「七曲登山道」、「百曲登山道」、「馬の背登山道」、「めい想の小径」のいずれかが便利かと思います。
「七曲登山道」と「めい想の小径」が初心者向けで、「百曲登山道」は山道に慣れた方向け、「馬の背登山道」はさらに体力に自信がある方向けです。
一応こちらの4コースは全て制覇いたしましたが、「馬の背登山道」は、上級者向けというだけあって急勾配の岩場が連続し、途中何度もこころが折れそうになります。
中にはほぼ垂直な断崖(しかもそれなりに距離が長いというか高低差がかなりある)もあり、本当に体力がないと厳しく危険です。
馬の背の急勾配
個人的には、長良川を眺めながらハイキング感覚で登れるめい想の小径がおすすめですが、つい最近(2022年8月)滑落事故もあったようで、登山道ですからやはり油断は禁物です。
こころと身体のリフレッシュも兼ねて岐阜城登山、みなさまもいかがでしょうか?